第24回 ラジオDEフォトグラフ
撮影探訪
今回は竹中さんが、東京、新橋周辺のガード下を日中から日が傾くまで撮影してきましたので、その写真をご紹介します!
ガード下というのは中々味わい深いもので、橋脚のアーチは額、そして飲み屋は美術館の絵画のようでした。年号が変わり新しい時代が訪れようしてしておりますが、だからこそ、昭和の高度経済成長を支え、平成の荒波に乗ったサラリーマンのオアシスを今一度見ておくのも一興です。
ではご覧ください。
新橋という名前の由来とは?
そもそもサラリーマンの聖地『新橋』の名前の由来何でしょうか?
港区の公式ホームページには以下のように書かれています。
慶長6年(1601)に設定された新しい東海道は、はじめ今の港区芝一丁目あたりが起点でしたが、3年後、増上寺前の浜辺などを埋め立て、起点を日本橋へ延ばしました。この時に、今の港区の北東端に、新しい橋が架けられたのだと思われます。新しい幹線道路の延長にふさわしく「新橋」の名をつけたのか、あるいは汐留川に架かるいくつかの橋の中で“より新しい橋”という意味でそう呼んだのかも知れません。
宝永7年(1710)に芝口御門が橋の北に造営され、日比谷から橋の南へ移された町も、芝口と名づけられました。橋も芝口橋と名前を変えましたが、橋の北側を新橋というようになりました。明治になって橋の名を新橋に戻し、明治5年(1872)には日本の鉄道起点「新橋駅」ができたので、新橋は港区側の地名になりました。
明治42年(1909)山手線に現在の新橋駅が「烏森駅」として開業、大正3年(1914)には新橋駅となり、元の駅が汐留駅になりました。昭和7年(1932)、新橋ははじめて当時の芝区の町名となり、昭和40年(1965)住居表示の町名になりました。
引用:https://www.city.minato.tokyo.jp/kouhou/kuse/gaiyo/chimerekishi/32.html
昼夜の新橋の様子
夜の街、飲み屋の街というイメージのある新橋。
今回は明るい時間帯から飲み屋の集まるガード下周辺の撮影を敢行しました!
日が傾き始めてから、活動し始める新橋のガード下は今はまだ夢の中。
活気という言葉からは程遠いものでした。
日中はあまり目を向けることのない、ガード下の飲み屋はアーチにがっちりハマっているところがよくわかります。
撮影をしていると徐々に日が傾き始め、いつの間にか黄昏時。
ここからは新橋の夜の表情が顔を出し始めます。
線路沿いを歩き、ガード下を撮影した後は、街の中歩を進めました。
新橋に公園?
日中撮影をしているときに発見したのですが、雑居ビル群の間にそれとは真逆の綺麗に手入れをされた空間がありました。
意外と思われるかもしれませんが、新橋のガード下のすぐそばに公園があります。
ちょうど桜の時期で綺麗に咲いて、オアシスのようでした。
いかがでしたでしょうか?
東京は再開発が進み、皆が新しいものに目を向けておりますが、一歩立ち止まって、古いものにも目を向けてみましょう!
きっと新しい出会いがありますよ。